昭和52年10月17日 久保山家霊祭
昨日は、あのような、ここ10年の記念のお祭りを奉仕させて頂いて、( ? )今日は私も疲れて、え~、本当言うなら神様ごと、人もあんな感動感じて、の中に、え~、したのだから、疲れとらんと言うのが本当なんだけれども、その本当の事がでけてない証拠に、やはり体に、えぇ、疲れを感じます。
けれどもああいうお祭りを仕えて、もし、おかげで疲れてないと言うなら、大祭に対する思いも、少なかったし、また御用も出来なかったという事になるのじゃないだろうか?と、ね、まあ、本当に合楽の信奉者として、一生懸命御用頂いとるなら、今日は私は本当は、疲れておるというのは本当、それをもうひとつ超えたところには、もう疲れない世界がある、ね、例えば三代金光様なんか、御大祭をあせつ・、何回も何回もお仕えになる、けれども御大祭が、終るとすぐまた御結界にお付きになっておった、もう疲れの様子なんか前々見えなかった、だからあそこまで疲れないというのなら、本当だけれども、え~、ああいう、おぉ、感動的なお祭りを、奉仕させて頂いた後だから、「疲れておる」と言うのが、ほっ、だいたい私共としては自分は本当じゃないかと思う、(?)にです私が疲れとるから、まあ言うようはないけどそんな感じがするんです。
御霊様もやっぱり同じような感じがする、ね、本当にだんだんおかげを頂いて、だが、どういう事が言えるかというと、今朝からの御理解の中にも、「あれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになれば、一人前の信者じゃ」とこう、だからそこん所は、十分分かっておる、分かっておるけれども、おかげと頂けないところに、私共の、なま、生身を持っておる時の苦しみがあった、おかげという事は分かっておるんだけれども、おかげと、言えない、お礼が言えれるとこまでいけない、ね、「あれもおかげであるこれもおかげであると分かるようになると」という、だから分かるという事だけで、だいたいは、まぁ信者の、ね、実際はここで腹とも立てちゃならんのだけれども、おかげなんだけども、やはり信心がでけておらんから腹が立つとか、又は、寂しい思いをするとか、又は悲しい思いをするとかという事になるのであって、それを分かっておる、「あれもおかげであるこれもおかげである」と分かっておるというだけで、(?)したこと、分からないと、腹かきっぱなしであり、又は、悲しっ、げにぱなしじゃ、これはもう大変な違いなんです、ね、それが「分かっておる」「分かってない」、「信じておる」「信じていない」ということは大変な事、今日の御理解は、そこをもう一つ、先のほうにある、「目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多い」とこう仰る、目に見えない、言うならば、魂の世界などは私共には、見えないのだ、けれども、「親先生がああ言われるのだから、御霊様も喜んでござるだろう、助かってござるだろう」とこう、それを信じる事なんだ、目に見えない世界を信、のことを、ね、目に見えない、世界のおかげの方が、お、多いんだ、と、しかしこれは信心する者が、と仰った、「信心する者は目に見えるおかげより目に見えないおかげの方が多いんだ」とこう、だから、目に見えない世界におる、お母さんの霊が、なら親先生がああ言われるから、やはり、助かっておるだろう、喜んでくれておるだろう、と、それを信じる所に、私は信心がある、信心のある者とない者、信じる神様を頂いておる頂いていない者の、違いがそこにあると思うんです。
今日、あの~、神様にそのことをお願いさせて頂きよったら、ね、あの~、何て言うか、あの~、こう「つののあるたサザエ」って言うかね、あのサザエのつのを頂いたんです。
あのサザエのつのって、だいたい、え、サザエというのは、言わば、こう、自我自我したり、まあ、言うならば、つのを出したり、(手や)、ね、人間ですからそういう時はあります、ところが、なら、私共はこの世では、それのような事であったけれども、有り難いことに、実を言うたら、ここでつのども出すことじゃないんだけれども、腹でも立てるこっちゃないけれども、腹立てとる自分がね、情けなくなったり、そのことが、悔やまれたりする、そこで、一心のお詫びが出来る、そこに「詫びれば許してやりたいのが親心」というような、働きが、こう出けて来ておる、ね、(?)においてはそうだったけれども、その、あの「もつ」であるところの、「つの」があの珍味と言われるほどしの、味わいの、霊であるということを、私共は信じるよりほかにないですね。
ね、もうまた、(そげなんものはもう?)、腐っておるならば、腹わたが腐っとるならもう、そりゃあ、もう、あの、ここへんで「じご」っち言うですかねぇ、その「じご」をもう捨ててしまうところ、ところが、あの、「サザエ」というのは、もう私共の、成人のせ、の、状態であったろうだけれども、信心のおかげで、「あれもおかげであった、これもおかげであった」と分かるようになると、一人前の信者じゃ」というその、一人前の信心になっておる、もうこれは、私が、ここまで分かっているということは、もうこの世で光を頂いていかなかったら、もうあの世は、では、こんな惨めな事はない、ということです。
もうあの世は暗黒だ、この世で信心の光を頂いていかなければ、もう本っ当にこんなに、気の毒な事はないです、ね、そういう意味で、長年信心させて頂いて出来る出来んは別としてです、だんだんおかげを頂いてみて、「はぁ、本当にあれもおかげであった、これもおかげであった」と分かるようになっておったという所にです、ね、言うなら、一人前の信者として神様が、取り扱こうて下さる。同時に、もう一つこのみ、霊様が、満足してござることは、いわゆる、子供達が嫁達もが、皆、いや心を、かなえて、神様へ心をむけれるだけの信心を頂いておること、婦人総代として御用を頂いておった、その婦人総代としての、お~、例えば、変わりに、なら、ようこさんが、今度、婦人総代として、え~、玉串上げたということなんかは、私共が感ずる以上に、霊は感じたことであろう、とこう思うのです、もしようこさんが信心がなかったら、恐らくそれは出けなかった、けれども、おかげを頂いておったおかげで、うんなら、まぁ、「あ~記念祭、記念祭」と言うておられた、そのお母さんが、の、うん、言うならば、代わりの、あの、玉串、の、御用も頂けれる程しの、おかげを頂いておったということは、これは親として、霊として、こんな満足な事はないのじゃないのだろうか。
私共、ここで分からしてもらうこと、し、今日の御理解から頂いて、信じなければならない事は、いわゆる霊の世界を、目には見えないけれども、「目に見えないおかげの方が多い」と仰る、その多い世界を私共が、親先生がああ言われるから、信ずる、ということだと思う、しかも、ならお知らせに頂いた、その「サザエのもつ」と言うのは、ほかの物の「もつ」だったら、言うならば、もう、捨てるよりほかにないのだけれども、この「もつ」だけはむしろ、あれは、もう、なんて言うでしょうか、ん~、言うなら、玄人が「美味しい」と言う程しの、ん、食べ物、言わば、心の中にそういう、言うならば、光を頂いておる、そういう珍味と言われる、おも、自分でも思える程しの、有り難い物に浸っておれれるようなものが、だんだん頂けて来ておられたんだということを、まぁ、信ずるより、ほかにない、うん。
私は今日はその、もう、おかげいた、もう、どの、どの程度のどのようなおかげを頂いておられるだろうかと思ったら、結局、いわゆる「サザエのもつ」の、お知らせを頂いて、これはまぁ、私は、色々皆さんも考えてみるとよか、「はぁお母さんがあげん時、さざ、さざえじゃったじゃろう」と、ようね、思ってみたら、けれどもその内容がね、えぇ、その「もつ」として、あの珍味の、珍味というのは、これは信心を頂かなければ分からない、ことじゃなかろうかね、えぇ、「この喜びはどこから湧いてくるだろう?」ね、こういう時には昔なら、もう腹が立ったり、悲しかったりしよったんだけども、それが反対にお礼が言えて喜べるということは、信心とはなんと有り難いことだろうと言ったよる時に、私はその、「もつ」の、おぉ、いわゆる、あの、さざえの、その、角のようなものではなかろうか、いわゆる珍味である、信心を頂かなければ味わえない、頂けない、味わいを味わいながら、しかも、なら、あの~、子供達が、嫁達が、孫達までが、本当に、い~、「合楽、合楽」と言うて、合楽に心を向けておるという事は、もう霊としてこんなに、有り難いということはなかろうとまぁ思うんです。そして、お知らせを頂いてみて、「やっぱそうだ」とそれを、信ずるよりほかにはない、目に見えないところだから、ね。
私はそんな、こんな御理解初めて頂いた、うん、だから、まぁだいたい、え~、信心の徳と言うか、信心の力を頂いてこれからもいよいよ霊ながらの助かりをいよいよ、精進していくことでしょうし、え~、霊ながらの、言わば、安心の霊、喜びの霊として、おかげを頂いていく、それに、あとに残らせて頂くものは、信心とが、こう、あいまっていく時に、いよいよ有り難い世界を、(?)ことができると思うですね。
今日は、私も実は言うと、本当に疲れておる、だから霊もやっぱり疲れておる、うん、まぁその程度のことじゃなかろうか、それを大祭のことに一生懸命の思いをかけたから、疲れておる、けれどもこと神様ごとに、一生懸命であったら、疲れてはならんけれども疲れておる、そこに私の信心不足を感ずるけれども、こ、この向こうに、どんなに一生懸命の思いをかけても、御用頂いても、疲れてないほどしの世界がまだあることだけは間違いない、それは、なら、三代金光様の、ん~、あのご様子を思うただけで分かる、もう一つ向こうへ私共が精進せなければならない世界があるということですよね。 どうぞ
秋山誠輝